研究の歩み (明治から大正時代迄)
明治16年(1883)2月22日
古文書の保管者であった宮下源兵衛は、神官宮下荘齊とともに代々伝わる古箱を開封し、多数の富士古文書を発見しました。
明治22~23年頃
宮下氏は村内の桑原玄叔らと古文書を書き写して研究を始めました。しかし、そのことが村内の対立や混乱を招き、研究は中止されました。その後、古文書は再び封印され、容易には閲覧できなくなりました。
明治24~25年頃
内務省の役人河井庫太郎が郷土資料の調査に訪れ、古文書を世に紹介しようとしましたが、実現には至りませんでした。
明治26~27年頃
甲府地方裁判所長中田憲信が、郡長八代駒雄とともに宮下家を訪れ、古文書の一部を閲覧しました。
明治36年(1903)9月
三輪義凞は古文書をもとに、護良親王の首級に関する伝承を明治天皇へ上奏しました。
明治38年(1905)1月
紀貫之の贈位に際し、御歌所長高崎正風の依頼を受け、三輪義凞は古文書をもとに紀貫之の子孫について調査し、その関係資料を宮中へ献上しました。
明治39年(1906)1月15日
三輪義凞は、富士元宮浅間太神宮が正当な社格を受けずにいることを惜しみ、その由緒を明治天皇へ上奏しました。
明治39年(1906)8月
三輪義凞は古文書に基づいて、富士山と富士元宮浅間太神宮の古代からの歴史をまとめた『富士史』を出版し、天皇に献上しました。
明治41年(1908)11月
長慶天皇の陵墓および関連する事績について、明治天皇へ上奏しました。
大正3年(1914)2月
三輪義凞と宮下半蔵らは、400名以上の賛同を得て、富士元宮浅間太神宮の社格奉祀を求める請願を帝国議会へ提出し、衆議院で採択されました。
大正10年(1921)6月
三輪義凞は神代に関する古文書を総合的に研究し、その成果を『神皇紀』として出版し、天覧・台覧に供しました。
大正11年(1922)1月14日
富士古文書の研究を目的とする財団法人富士文庫を設立しました。
- 4月10日 文部大臣より設立認可
- 7月28日 認可書交付
- 8月4日 法人登記完了
設立者は10名、基本財産は5,800円でした。
大正11年10月
評議員14名、顧問9名となりました。
大正11年10月25日
上野精養軒で富士文庫の発会式と講演会を開催しました。
大正11年10月29~31日
富士文庫会員約10名が富士山北麓の史跡調査を実施しました。
- 小室浅間神社参拝
- 富士文庫研究所で役員会開催
- 河口湖方面の史跡調査
- 石船神社参拝(護良親王の首級を祀ると伝えられる神社)
大正12年(1923)5月6日
群馬県邑楽郡羽附の楠木神社(楠木正成の首級を祀ると伝えられる)を訪れ、現地調査を行いました。
大正12年9月1日
関東大震災により、浅草の富士文庫事務所が全壊しました。
設立認可証をはじめ、重要書類や神代史に関する古文書の写しが焼失しました。その後、認可証の謄本を裁判所で再取得しました。
大正12年9月18日
焼失した事務所跡に新たな富士文庫事務所を建設しました。
大正13年(1924)1月20日
本郷・燕楽軒で新年会と講演会を開催しました。
大正13年2月21日
賛助会員制度を設け、富士文庫の活動の普及と発展を図りました。
大正13年5月15日
宮内省図書寮の要請により、三輪義凞は南朝関係の古文書十数点を持参し、図書頭や編輯官らへ説明・供覧しました。
同日、上野精養軒では南朝史講演会と古文書展覧会を開催しました。
大正13年
顧問であった岡部長職子爵は、長慶天皇の事績が他機関によって先に確定される前に、富士古文書が伝える内容を公表すべきであると三輪義凞へ助言しました。
これを受けて三輪義凞は、長慶天皇の事績をまとめる作業に着手しました。
大正13年12月20日
その成果として『長慶天皇紀略』を刊行し、丸の内中央亭で出版披露会を開催しました。
大正14年(1925)3月21・22日
富士文庫会員約10名が、
- 長慶天皇陵と伝わる軽島森
- 護良親王の首級を祀る石船神社
- 延暦19年および貞観6・7年の富士山噴火に関する史跡
などの現地調査を実施しました。
研究の歩み (令和時代)
令和元年(2019)頃
小室浅間神社の奉職を終え、富士山北東本宮小室浅間神社の禰宜として奉職を始める。
そこで「宮下文書」と出合う。
令和8年(2026)4月12日(日)
一人の人物が社務所を尋ねて来る。